能力が低い事は個人の問題であって社会や人に責められるべきでは無い。

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社会では、人と人とが手を組みビジネスを動かしている。
時には失敗し、時には思いがけない成功が舞い込んでくる。
能力の高い者同士が切磋琢磨し合い、個人で創りあげる事の出来ないモノをチームで創りあげる事も可能だ。

そんな中で取り残されるのはいつも決まって「能力が低い者」だ。

  • アイツは能力が低いからダメだ。
  • なんでこんな事が出来ない。

  • この一連の流れが非常に僕は嫌いだ。
    もちろん能力が高いと評価されている人間が、能力の低い人間に対して苛立ちを感じるのは理解できる。その人は簡単に出来てしまうから。
    ただ、「このプロジェクトが、この作業が出来ずにいるからアイツはダメだ。能力が低い。」と人を責めるのはどうなのだろう?弱者を守りたいとかそんな気持ちの悪い話をしているのではなくて、むしろ僕が責めたいのは「能力の低い人を責める能力の高い人」

    その失敗や作業を、その人に任せているのは誰か?人を責めたら結果が良くなるのか?
    チームならば人のせいにするのではなく、カバーが出来ないチーム力に問題があると思う。問題は失敗や能力の低さじゃない。そのプロジェクトとチーム力を甘く見ていたチーム全体が問題だ。

    もちろん能力が低く、失敗やクリアすることが出来ない力不足は認めるしか無い。その人は責任を感じ、成長していくしかない。ただ起きてしまった問題はもう起きてしまったのだから、今するべき事は、それをどうするかが先決だ。

    そもそも、その「人を責める」という事自体が、責めている側の「逃げ」として思えない。
    先に挙げたように、これはチーム全体の責任だ。責任を押し付けているようにしか見えない。

    責任

    自由に応答する、反応する、法廷において自分の意見を自由に発言する(respond)というのが元らしい。wikipedia:責任

    日本語の字を見ると「責を任せる」奇しくも「責める」と同字だ。責める・任せる・そして応答する。どれも非常に道徳的だが曖昧だ。ただし現代社会では主に「リスクを背負う」という意味で使われている。

    リスクを背負う。これはチームに当てはめるならば、リスクのある仕事を任せていることになる。そのリスクは個人で負うべきことなのか。もしそうならば、チームである必要が無いと思う。リスキーなことをする人間が弱者なら、その弱者から見てそこに居る強者は不要だ。なぜならば、その強者は何もすることなく、ただ強い発言力を持つだけの木偶の坊だからだ。と、僕は思う。

    もちろんこれは請負業務の場合、発注側は能力の低さを元に、納品物のクオリティの低さを受注側に責めることはできる。両者間での契約により責任問題が受注側に発生するのは当然のことである。それこそ法的な責任を負う必要があり、納得できるモノを創る義務がある。
    しかし道徳的に見るならば、能力の低さは受注サイドだけでなく発注サイドの「見誤り」も原因の一つだ。

    こう考えていると、やはり「能力が低いから責める」という結果論のようなモノは嫌いだ。なんとも非建設的で、感情だけの、意味を成さない、前に進まない事柄にしか思えない。教える、叱る、責める、これは非常に密接しているが、使いどころは難しい。人を動かす、育てるというのは簡単な事じゃあない。もちろん叱る事は必要だとは思う。ただ、考え無くして人を罵倒する行為はなんというか、ダサい。(ダサいという言葉がしっくりきた)

    もし、能力不足の問題を人に当てはめるなら、それはまだ準備中という事でしか無く対した問題でも無い。
    こういった話は皆さん、それぞれ自分流、あるいは自社流のマネジメント術があるとは思うので、この考え方が良いと勧めているわけでは無い。
    また、これは「責めることが悪」と言っているのではなく、責めるなら考えを持って行うべき。という事を言いたい。何の考えも無しに人を責めても何も意味が無い。ただストレスを生む事しかない不毛な出来事で、且つ責めるには、それこそ責任を取る心積もりでいるべきだと。それこそマネジメント能力が高い、低いの基準になるのでは無いかと。

    罪を憎んで人を憎まず。
    そこからどう次の一歩を出すか、そしてどうすれば能力を改善できるか、そういった事を考えている時間を作った方がよっぽど建設的で効果があると、僕は思う。